「日本を捨てた男たち フィリピンに生きる『困窮邦人』」読了

「死んだらそのむこうの世界が今よりもよいはずだと、どうしていとも簡単に信じられるのだろうか。」

 

この本を読んで、もう何年も前に読んだ、自殺者が増えていることに対するこの言葉がふと蘇ってきた。誰が書いたものかも、もう憶えていないけれど。

所持金0、頼れる親類なし。フィリピン人の好意で命をつなぐ人々

この本で取材を受ける「困窮邦人」たちは、日本の社会の中で居場所をなくし、フィリピン女性を追って海を渡った。「フィリピンに行ったらどうにかなる。」「フィリピンでは自由が手に入る。」そんな夢をいとも簡単に信じ込み、さしたる調査もせずに海を渡る。

夢の果てには、帰国費用すら使い果たしてしまい、不法滞在のため病気になっても医者に見てもらうことすらできず、多くは日本に住む家族たちにも見捨てられ、にっちもさっちもいかない生活の中、フィリピン人の「困っている人をほうっておけない」という最低限の好意で命をつないでいる彼らがいる。

彼らは「日本を」捨てたのか?

「日本を捨てた男たち」というタイトルには疑問を抱かざるをえない。


彼らは確かに日本に生きにくさを感じてフィリピンに渡ったわけだが、心の中で日本を完全に「捨てた」わけではないと思う。

 

あえて言えば、出口が見えない人生の袋小路にはまり、そこから抜け出る努力を「捨てた」のだと思う。

 

にも関わらず、それでも残ったプライドと見栄と虚栄心と、反面の卑屈さと自己嫌悪と、そんなものが混じり合い、著者に対しても、経歴を詐称したり、虚勢をはったり、金をせがんでみたり、急に態度を硬直させたりする。

日本の社会が悪い?彼らの自己責任?簡単な結論などない

この本を読んでいるうちに涙があふれてきた。


「日本の社会は生きにくい」とか、「彼らの自己責任だ」とか、自分とは違う世界のことと片付けてしまうことができれば簡単なのだけれど、私はひっかかってしまった。

だから何かしたい、しようというわけではないのだから、ひっかかろうがなんだろうが意味がないという見方もあるかとは思う。

 

でも、もしかしたら、彼らがいる世界と自分が今いる世界はほんの紙切れ一枚の位置の差しかないのかもしれない。

 

ほんのわずかずれていたら、私たちはもしかしたら誰もが、彼らが今いるのと同じように、出口がない真っ暗な穴の中に落ちてしまうことがないとはいいきれないのではないか?

信じていた何か、誰かにあっさり裏切られた時、人はどうするのか

人は何かを信じていたいんだよな、と思う。

 

それは人であったり、自分の実力であったり、金であったり、人によってその対象は違うと思うけれど。

 

そして信じていたものにあっさり裏切れらたときに、そこから立ち直ろうと努力できるのか、あるいはあの世という新たな信じる対象を求めることになるのか、その差はどこにあるんだろう?


ここにでてくる困窮邦人たちは、立ち直ろうとする努力もできず、一方であの世を信じることもできず、ただ暗い穴の中で希望も夢もなく、時間的にできるだけ近くだけを見るようにして生きていくのだろうか。